2008年7月10日木曜日

『ぼくを葬る』を観て「死」について考える

少し前にGyaOで『ぼくを葬る(おくる)』という映画を観ました(現在は終了)。

ガンで余命幾ばくもないことを知りながらも身内や恋人(男同士)には打ち明けられず、唯一、おばあちゃんにだけ告白して魂の救済を求める主人公の男性カメラマン。


幼いときには仲が良かった姉とも確執があり、素直になろうと思いながらもつい口汚く罵ってしまいます。肉親だからこそ、一度絡まってしまった糸はなかなかほどけはしません。


この辺りの感情の機微はさすがフランス映画といった感じで、日本人の感性にもしっくりきます(善悪や喜怒哀楽がはっきりしているアメリカ映画は捉え方が表面的過ぎるきらいあり)。感情をコントロールできずに悩むのが本来の人間の姿でしょう。


主人公がホモセクシュアルでやや過激な表現があるため「R-15」指定となっていますが、それは些細なこと。生活と仕事、趣味や欲望、それらすべてが人間にとって不可欠なのですから。


人は望まなくても、死を迎えなければならないときがいずれやって来ます。そのときのために、今、何ができるのか?

そんなことをしみじみと考えさせられる映画でした。



何故今日になってこの映画を取り上げたのかというと、一昨日に夫の母が亡くなったからです。

80歳過ぎても白髪一本無い、元気溌剌とした母でした。子供や孫のために菜園で無農薬の野菜を作って、よく送ってくれました。食に口やかましく健康のためならお金や時間を厭わない、ある意味とても贅沢な生活をしていました。


最初はごく軽微なガンでした。手術もファイバースコープでできるくらいに簡単だということで、その前に2週間ほど自宅に帰っていたほどです。

ところが、一気にガンが爆発しました。気づいた時にはもうお腹中に広がっていたそうです。


昨日、家族4人でお別れに行ってきました。

安らかな顔をしていて、まるで眠っているかのようでした。


本来ならば長男である夫が通夜と葬式を取り仕切らなければならないのですが、本人の体調がすぐれず帰省が困難なため、それは叶わぬこととなりました。あまりにも急だったので、お見舞いにも私と子供達しか行かなかったのが悔やまれます。


人間の「生」は「死」と隣り合わせなのですが、普段はそのことを考えもしません。ですから、ひとたび「死」と巡り合わせると愕然とします。「健康」であることのありがたさに初めて気づくのです。


私自身も7月初めに会社でブッ倒れそうになって、健康にあまり自信が持てなくなりました。まあ、これは持病の貧血のせいだと分かっており治療もしているのですが、それでも一歩も歩けなくなる状況には自分が一番驚きました(車椅子で医務室まで連れて行かれるとは)。

人間、まずは「健康」。お金や地位や名誉なんかは二の次、三の次ですね。


母は夫に「これからは好きなように生きなさい」と言っていたそうです。


「命」の尊さに思い至れば、「友情」や「愛」の大切さ、「生きがい」のありがたさも自ずと理解できます。

いかなる理由があるにせよ、自殺は思い留まるべきだということも。

ましてや人の命を奪う犯罪など、起ころうはずもないのですが…。

2 件のコメント:

  1. オレンジネオ2008年7月12日 0:00

    霧笛さん
    コメントのしようもありませんご冥福をお祈りします。人生ある年代を過ぎると棺桶に半分足をいれているようなものだと言われています。わたしの優秀な先輩も二人程50台前半で亡くなっています。有限な生命の中を生きて行くのが人生ですし、先の寿命が分かってもそれだけのことです。想定できる人生の時間を有意義に(価値感は様々)にかつせい一杯いきることが供養にもなるのでしょうか?変化の激しい時はストレスもかかりますお体に気をつけてください。


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  2. オレンジネオさん、暖かいコメントありがとうございます。

    私自身はいつも精一杯生きている、というか、家族に迷惑をかけない範囲で好き勝手に暮らしています。
    後悔したくないですから。
    そうやって前向きに生きる姿勢を見せることは、子供達にとってもプラスになることだと信じています。
    でも、体だけは大切にしないとダメですね。

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